アニメの悪影響について

「アニメの悪影響」というと、暴力とか犯罪のような目立った現象、それも「行為をそのまま真似る」という分かりやすいケースだけを想定しがちである。そんな分かりやすいケースのみを危惧する浅慮ぶりは往々にしてバカにされるし、「アニメ特有の"悪影響"なんてない、他のあらゆるメディアと同様に、専ら受け取る側のリテラシーの問題である」とするのが洗練された意見とされがちだが…実は私が注目してる「悪影響」はそういう次元でなく、キャラの描き分けを軸とした人間関係・人間把握の方である。

ほぼ全てのアニメのほぼ全てのキャラは、「美男美女/普通/ブサイク」のどれか一目で分かる描き方をされていて、その属性に即した振る舞いや扱いを強制されている。主人公が惚れるのは「美男美女」しかあり得ないし、「ブサイク」に好かれた異性はちょっと迷惑そうにする。その立ち位置が逆転することは、絶対にあり得ない。どれだけ心優しいエピソードを積み重ねようとも、美女として描かれていない花沢さんやジャイ子に真剣に好意を寄せる男性が現れることはないのだ。綾波レイがブサイクだったら、人格すら定まらないヒロインがごく僅かずつ感情を獲得するのを、主人公も視聴者も気長に待つ訳がない。めんまが透明感あふれる美少女でなければ、皆の心の中にずっと住み続けることはなかっただろう。
この「描かれ方」こそ、私が考える「アニメの悪影響」の眼目である。

こういう世界観が幼少時から丹念に刷り込まれるせいか、ある世代から下は、子供の頃から実社会でも無意識のうちにその演じ分け・扱い分けをするのが普通になっているように思える。しかも、一度貼られたレッテルはまず剥がせない。「ブサイク」だからと「イジられ役」に決まった子供はずっとその立場で、周囲はイジるのが礼儀、本人もイジられるのを甘受するのが礼儀となるのだ。むしろそれができない方が、「空気が読めない」ことになる。

とは言ってみたが、実際は「アニメの描き方」が鶏だとすれば、「子供社会の人間関係」は卵だろう。つまり、正確にはどちらが先かは分からない。そもそも子供社会の人間関係の在り様がそのようなものだから、それを分かり易く落とし込んだのがアニメの描き方だと考える方が普通かもしれない。
だとすると、そういった子供ならではの人間把握の世界から旅立っていくことが、「大人になる」ということの一側面だろう。人間同士触れ合っていれば、絶対数が少ない「美男美女」よりそれ以外を好きになることの方が多いし、年齢を重ねていろんなコミュニティと交わることが増えればその回数は当然増して行く。そもそも「美男美女」「ブサイク」の定義自体、人によってさまざまであることも分かる。人は歳を取るし、容姿はどんどん変わって行くことにも気付く。自身が変わって行くこと自体も「成長」だが、他人が変わって行くことを知るのも「成長」である。

問題はこのフェイズである。
アニメの世界に没頭していれば、この「大人になる/成長」の部分を、看過して過ごすことが極めて容易なのだ。アニメのキャラの容姿は基本的に変わらないし、憧れられるポジションの「美男美女」は常に好かれるに足る言動をしてくれる。
アニメがなくても、子供社会では「アニメ的な」人間把握が繰り広げられ、「アニメ的な」レッテルで苛めが起こるだろう。でも一部の大人は、アニメがあるからこそ歪んだ人間把握を助長されている節があるのではないか。(あくまでも個人的な感想です)
アニメでは美女の顔に「ほうれい線」は絶対書かれないが、人間にはそれが徐々に出現する。アニメではどの角度から捉えても美女は必ず美女であるが、人間は動作の途中を捉えれば必ず均整が崩れる歪んだ表情が現われる。その結果、アニメばかり見ている層は、有名人がすこし歳を取っただけで、凡そ生身の人間に直接投げ掛けることはできない「劣化」などというワードを、簡単に使えるようになるのだ。アニオタにロリコンが多いのも、この「描き方」に違和感を持たない、価値観の整合性があるからだろう。彼らが、万人が認める美女でなければソフマップでイベントをするアイドルにも「チェンジ」と言い放つのは、人によって「美男美女」の定義が変わる認識すらも獲得していないからではないか。(繰り返しますが、あくまでも個人的な感想です)

アニメばかり見てる男性層が、女は容姿で全てを決めるから自分たちがモテないとばかりに「※但しイケメンに限る」のようなネタを発達させるのは、極めてよくできた寓話である。それは「『誰よりも自分たちこそが、容姿だけで全てを決める世界に生きている』ことの投影」という点に於いて。

…とまあ、後半は敢えて「個人的感想」をかなり極端な形で表現してみたが、どれだけ複雑な精神世界を描いているアニメ作品であっても、キャラの描き方は恐ろしくシンプルに容姿を明示しているのは事実だろう。そしてその描き方は作中の属性を端的に表しており、その基本線から外れているものは、アニメファンにとっては違和感、もっと言えば嫌悪感を掻き立てるものである。
それを実社会にまで敷衍するかどうかは、まさに個人の資質の問題なので、決して「アニメに没頭すること」が「容姿や属性に合ったキャラの人間しか許さない人間把握の形成」の十分条件ではない。ただ、それを助長する可能性が幾らかでもあるので、あまりに没頭して実際の人間関係から吸収するより大きな影響を受けるようになると、結果として「悪影響」として想定され得る、というだけのことである。そこは誤解なきよう、お願いしたい。

こういう悪影響の結果凝り固まった一部のアニオタロリコンは、「自分の意思で考えて発言する、大人びた子供」を絶対に許さない。「お人形さん」であるはずのものが、従来の「お人形さん」の類型を超えた振る舞いをすると、それを徹底的に非難して、人格を否定してまでも正してあげることこそが「大人の正義」とまで思ってしまうのだ…ってまあ、ここまで来るとやっぱり個人の資質の領域があまりに大きいので、一般化しちゃダメなレベルだけど(≧m≦)

話を戻そう。
「容姿や属性に合ったキャラの人間しか許さない人間把握」に慣れてしまった人間は、刻々と変わり行く人間と、いろんな面を許容して共に歩んでいく「恋愛」という選択をする可能性が極めて低くなるのは間違いないだろう。
近年、「趣味の世界に没頭するために恋愛はしたくない」という価値観を時折耳にするようになったが、それよりもアニメという趣味によって構造的に人間そのものを愛せない人間把握パターンが形成されている可能性があるのでは…と考えると、少子化問題云々というレベルでなく、空恐ろしくなってくる。これが単なる杞憂ならばいいのだが。

追記:
決して「アニオタ→人を愛せない」「ディープな作品=悪影響のもと」ではないのは文中にある通りです。むしろ従来の発想では問題視されることが皆無の国民的作品に於いてさえも「容姿で扱いや振る舞いの全てを決める」ような描き方がされており、それを違和感なく受け入れる感覚こそ危うい、という話です。