五十音コラム「き」キラキラネーム

ここ数年来、当て字を多用した奇抜な名前、所謂「キラキラネーム」への風当たりが極めて強くなっている。

その奇抜さ・読み方の難解さ、そしてその裏に見え隠れする親の自己顕示欲のようなものが、不良のイキり方だったり"中二病"の拗らせ方と重なるのか、一時期は「DQNネーム」と言われたことも。いずれにしてもそういう親しみ辛い部分が、何となく人の反感や嫌悪を買うことが多いのだろう。

最近に至っては、子供の人生に関わるから、そういう名前は「断じて付けるべきではない」という論調が増えて来たように思う。単に、一般的に馴染みが薄いから親しみ辛いとか、自分のセンスと合わないから受け入れ難いとか、パッと読めないから面倒くさいとかではなく、まるでそれがモラルに反する"重大な悪事"であるかのよう。
批判の要旨としては、『奇抜な名前が原因で、子供が虐められたり困難に遭ったりする可能性が高くなる。それを承知でキラキラネームを付けるのは、許し難い親のエゴである』といったものが主流。最近fbなどでは『医療機関では患者本人と氏名の一致が絶対条件だから、重篤な状態でも名前の読み方が違えば輸血も手術もできなくて生命の危機に繋がる』的なエピソードも、キラキラネームの弊害としてよく拡散されている。

これらの意見、本当に正しいだろうか。

私自身、そういう名前の具体例を見聞きすると、正直「この名付けのセンスの人とは親しくなれなさそうだな」という感想を抱くことはある。しかし、それはあくまでもセンスの合う合わないであって、決して善悪や正誤の問題ではない、と思う。

名前が理由で子供が虐められる?
それは100%、虐める側が悪い事象である。それを事前に回避するべき、所謂『虐められる方にも理由がある』とする意見なのだろうが、ハッキリ言えば、自分に馴染みがない名前だから虐める、という発想自体が諸悪の唯一の根源だ。親が想いを込めて付ける名前を否定する理由になるとは到底思えない。
ついでに言えば、子供が生まれた後に現れた悪質な犯罪者と同姓同名だから虐められるという可能性だってゼロじゃないのだから、そういう意味では誰とも被らない奇抜な名前の方がそれを回避できる可能性だってあるのだ。
キラキラネームを批判しているあなたの名前だって、恐らく江戸時代には奇抜で到底受け入れ難い名前だったはず。単に、馴染みが薄いもの・異質なもの、或いは時代の変化を受け入れたくないという"自分の趣味"を押し付け過ぎてはいないだろうか?

医療機関の件は、百歩譲ってそういう可能性が僅かにあるのかもしれないが…では、例えば難読苗字の男性との結婚を考えている女性に対して、「珍しい苗字になって、病院で読めなくて輸血ができなくて生命の危機に瀕するから」とか「生まれて来た子供が、珍しい苗字のせいで虐められるから」などという理由で、結婚や出産を止めたりするだろうか?それと同じ発想である。そう、真摯な想いの前には、そんな要素は取るに足らないものだし、そうであるべきだろう。

キラキラネームを"悪事"や"誤ち"のように全否定するよりも、そういう差別を生む発想や、その差別を当然のものとする環境の方を否定する、そんな社会になって欲しいものである。

#
蛇足を承知で言えば…「こんな名前だと虐められる・苦労する」と具体例を挙げて嗤ったり蔑んだり否定したりする方々、あなた方のその発想こそが"虐め"そのものですよ。親の価値観が批判されるだけならばまだしも、仮にその名前を授かった子供自身が自分の名前をググって、バカにされたり全否定されたりしてるのを目にしたらどう思うでしょうか。
他人の想いや価値観を、評価したり否定したりできる「大人」だと自認しているならば、そのくらいの想像力は持って頂きたいです。

五十音コラム「か」カニ

皆さん、カニはお好きですか?

たぶんお好きでしょう。
ええ、僕も好きです。ただ、貴方の「好き」よりはだいぶ薄めの「好き」ですが。

正直言って、「カニを食べる面倒さ」を10とすれば、「カニの美味さ」は8か9くらいだと思ってます。でも世の中の大半を占める、所謂"カニ好き"の人は、「カニの美味さ」が400くらいあるテンションで来ますよね。
この「8か9 対 400くらい」の温度差に、ちょっと引くんですよ。温度差ありすぎて風邪引くくらいのやつ(©フットボールアワー後藤さん)。
なので、もう面倒臭いので対外的には「カニ嫌い」ってことにしてます。なんだこの話。

ところで、この"温度差"っていうキーワード、意外と大事ですよね。

何かを・誰かを叩く人、「アンチ」と呼ばれる人は、しっかりした信念と価値観があるというよりは、それを支持する人と自分との"温度差"に、嘆き、震え、怒ってる場合が殆ど。
AKBを躍起になって叩く人は、AKBがオリコン8位くらいで、地上波では深夜番組にしか出てない程度の状況であれば、今と売り方ややってることが同じでも、それほど叩いてないんじゃないでしょうか。

逆に何かの「オタク」と呼ばれる人は、この"温度差"自体に酔えるタイプと言っていいのかも。周囲には深みにハマっていると思われても、自分では高みに上っているように感じられるような。その差異は、高低差あり過ぎて耳キーンなるほど(©フットボールアワー後藤さん)。

マスではなく、小さい市場で商品として成立させて行くには、この"温度差"を保つようにコントロールすることが最も重要、というか簡単な道なんだろうと思う。
ということは、所謂「メジャー」になる道程とは、温度差をなくしていく作業ということでもある。もちろん全国民的な平均温度をどんどん上げて行くのが必須だけど、ある意味もともと熱狂していた側に冷水を浴びせることもあるので、常にリスクが伴う、という。

アイドルから競馬予想(!)まで、いやあらゆる「人気商売」と言われる業種に関して、そこにいろんな苦悩があるよなあ、というふんわりした感想でとりあえずここは締めさせて頂きます。
なんだか締まらないコラムですね。陶芸家なら自分で割ってるやつだわ(©フットボールアワー後藤さん)。

五十音コラム「お」大人

大人になるって、どういうことだろう。

個人的には、一言で言えば「自分ができないことを受け入れる」ことだと思う。
プロ野球選手にはなれない、アイドルにはなれない、総理大臣にはなれない。無限大の可能性を持つ赤ん坊から、成長と共に自分の限界を見極めつつ、そんな自分自身を正しく厳粛に受け入れて行く営み。まさに現実と向き合うことそのものだが、そこには必ず何かを"棄てる"ための妥協や諦観が横たわっているので、痛みと苦しみを伴う作業でもある。

その痛みや苦しみを誤魔化すために、"棄てる"ものの価値がないように自分に思い込ませることも、自身の心の安寧の為にはある意味常套手段になる。
ただ、それを必要以上につまらないものと思い込むあまり、またそう思いたいあまりに、「諦めるものの価値のなさ」を声高にアピールする、更には他者に向かってもそれを押し付ける。そんな現象が、特にネット上には溢れ過ぎている気がしてならない。

自分が諦めようと決めた、或いは諦めざるを得なくなった、状況や肩書や職業について、ネット上で価値がない・つまらないと喧伝して回ることは、特にそれを「名無しさん」でしつこく繰り返し行うことによって、その価値観が広く受け入れられているかのように偽装することすら可能な世の中だ。ごく単純化すれば、自分の小さな心の安寧のために、特定の状況や職業や、場合によっては特定の個人を激しく傷付けるという、極めて自分勝手なことなのだが、「名無しさん」のフィルターを通すことにより、あまり良心も痛まないし、何よりもなんとなくそれが世間一般の価値観だと思い込むには好都合なのだろう。
これはとても怖いことだと思う。

これは掘り下げると一昼夜掛かるくらいに長くなるので、ひとまずこの稿では自戒を込めてこれだけ記しておくに留めます。

自分が現実と折り合える大人になるために、『自分以外の現実を傷付ける』という方法を取るのは、結局そのこと自体が大人になり切れない所業ではないでしょうか。

五十音コラム「え」AKB商法

いろんな文脈で批判や非難されがちな「AKB商法」。最大の攻撃ポイントは「特典を付けることにより、同じCDを何枚も(場合によっては何百枚或いはそれ以上も)買う人が出るシステム」だと思うが、果たしてそれの何が問題なのだろうか。

(1)音楽CDなのに、音楽を聴くために必要な枚数を大きく超えて購入することが
→a.お金の無駄
→b.資源の無駄
→c.音楽への冒涜
→d.なんか嫌だ

(2)必要のないものを購入して、不要なCDは捨てたりすることが
→a.教育上悪い
→b.地球環境に悪い
→c.なんか受け入れられない

(3)実際の人気・支持よりも、売上規模が大きくなるので
→a.チャートが人気を正確に反映しなくなる
→b.本当にいい音楽が売れない・世間に知られなくなる
→c.なんかズルい

さて、順を追って見てみますか。
まず(1)。そもそも経済行動は自由だし、世の中にはそんなことは大昔から溢れてる。好きな記事が載った本は保存用にもう一冊買うなどというマニア心理は勿論のこと、実用性のないお土産や使う気がない記念硬貨の購入まで(程度こそ違えど)これにあたるかもしれない。その前提を踏まえつつ…
a.については、重複するけどそんなの自由でしょ。昔よりも記録媒体の金銭的価値も資源的価値もだいぶ下がってるので、b.も含めて批判の意味も弱まっているし、当然ながらそれ以前でも自由な消費・経済行動の範疇。これを否定するのは、モテないやつはオシャレするな!というくらいの乱暴な批判だ。非モテだってオシャレはするし髪も染めるし、念の為に避妊具も用意する。言うまでもなく、c.音楽がどういうものであるべきかは各人の勝手な判断・価値観の域を出ないし、結局全部他人の自由に対して、d.なんか嫌だという感情をぶつけてるだけだろう。

(2)に関しては、まあある意味そうかもしれないが…そんなもんはCDに限らず、あらゆる商品に関して起こっていること。商法ではなく主に消費者の側の問題だし、家庭内のお金の使い方及び消費行動のルールや、自治体のゴミ出しのルールを守っていれば、他人にとやかく言われる筋合いがあるとは思えない。
a.はもう、各ご家庭で頑張ってください、としか言いようがない。b.に関しては、一見正当な批判のようで、なぜこれに関してだけ言うのかが分からない難癖だ。例えば、体裁の為だけで機能がほとんどないネクタイ。化学繊維であれば、原料にも加工にも化石燃料を消費するので、これを世界中のサラリーマンが全員止めれば、AKBのCDの比ではなく地球環境の改善に寄与するはずである。洋服だって車だって建築物だって、オシャレやカッコ良さや慣習の為に意匠を凝らして造形や彩色に拘っているが、地球だけを重視するならば全部単色で同じ形にすればいい。公園の噴水なんて真っ先に止めなきゃ辻褄が合わないよね。
そうでないのは、世界は無駄によって豊かになり、人間は地球環境の一部を壊しながら快適や快感を得つつ、適度に地球に優しくしてバランスを取る…そうやって何万年もやって来てるのだ。その中で急にAKBのCDだけ攻撃するのは単に、c.なんか受け入れられないという自分の気分を押し付けてるだけだろう。

そして(3)。
それこそYahooニュースにAKBの売上に関する記事が載るたびに、ごく一部の熱狂的オタが何十枚何百枚と買ってるだけで、断じて国民的アイドルなんかではない!的な否定コメントが入るけど…それが資本主義だから。そして音楽チャートも、そもそも買った人が別々であるかどうかの要素は排除された単なる統計で、その意味は受け取る側が決めるもの。更に言えば、全店が集計対象じゃなかった昔なんかは、オリコン対象店をリークして集中して買わせたり、音楽番組のリクエストに組織票を送ったりと、もっとエゲツないチャート操作を(特にアイドルファンは)やってた訳で。今は全店舗+通販や別形態・ダウンロードに至るまで、消費者のお金が投じられたものは全て網羅して集計しているのだから、「集金力」というエンターテインメントにとって重要な指標は確実に統計化されているはず。それでa.に対する反論は十分だろう。b.については確かにそういう部分はあるが、実はそういう偏りは昔の方が顕著だった。大衆にとっての音楽の入口のほぼ全てをテレビ(+ラジオ)が担っていたので、それこそごく一部の制作担当者やDJが、良くも悪くも流行を「作って」いたのは明白。本当にいい音楽かどうかをその一部の人々(それが彼らの"感性"のみに依るものならばまだしも、当然"オトナの事情"の影響が大きかった場合もあるだろう)が決めていた時代が、必ずしも健全とは思えない。今はネットを通じて有名無名のクリエイターの作品に触れることが可能だし、作られた”名曲”がパクリや流用であればネットがそれを指摘する時代である。結局この点に於いて殊更に糾弾するのも、「人気以上に儲かってる」感(実際は投資したい人が投資した額だけ正当に儲かってるのたが)が、c.なんかズルいという漠然とした感想の結果だろう。

と、こんなことは当然分かっている賢明な方には雑音でしかない屁理屈をわざと長めに書き連ねて来たが…一番言いたいのは、「AKB商法」のメリット。
AKB(並びに48グループ)は、発売から一定期間経ったシングルのMVは、YouTubeの公式チャンネルなどで全編を無料公開している。そして非公式な違法ULではもっと早く広汎に入手できるので(恐らくこういう時代なので公式でも公開しているのだろう)、本来は音源を入手するためだけならば、ほぼ金銭を払わずとも可能な時代と言っていいだろう。それこそ(1)で示した金銭や資源の無駄というだけの文脈で言えば、CDなんて買わないでも事足りるのだ。
しかし、そこに握手会を始めとする特典を付けることによって、グループを応援する人たち(いわゆるオタク)が納得してまとまった金銭を運営側に託すことができ、それをプロモーションやMV・衣装等の制作に回すことができるのだ。そして握手やイベントの特典を備えたCDが確実に一定数以上売れる「保証」があるから、運営は安心してグアムでヘリ飛ばして空撮するお金の掛かったMVが作れるし、大量の売り上げ=印税を払える前提で優秀な楽曲制作会社に多数声を掛けてコンペを行い、流行に耐えうるキャッチーな楽曲が作れるのだ。

ちょっと前に、特定のアイドルに投資して相応の特典を見返りとして貰える「アイドルファンド」的なものが少しだけ話題になったことがあったが、AKBはこれを楽曲ごとにCDを介してやっていると言っていいだろう。「CDを介する」のが資源の無駄遣いと言いたくなる気持ちは分かるが、既に店舗やネットを通じた販売のインフラが確立されているものを使うのは効率的だし、その結果チャートの上位になれば音楽番組や情報番組で取り上げてもらえるので自動的にプロモーションになるという明確なメリットがあるのだから、運営にとっても出資者(=CDを買うファン)にとって最も合理的な手段なのは間違いない。出資者への見返りはメンバーとの”接触”のみならず、握手券の使用数や総選挙の投票数が各メンバーの集客力を表し、その結果出資者が投資したいメンバーが運営から優遇されることにまで及ぶので満足度は高く、よく言われるように持ち株の数に応じて議決権が与えられる株主総会の様相である。
それこそ特典なしでCDが売れる見込みから逆算した、プロモーション目的の「入口」としてのMVならば今のような手間やお金が掛かった映像は作れない時代。あくまでも特典付き前提でのファンの投資を見込んだ、「出口」作品の意味合いも持つMVだからこそ、優秀な作家に依頼して完成度の高い映像が作れる、とも言える。思い切って大袈裟な表現をしてしまえば、現代日本音楽界のMV映像制作を支えているのはオタクの資金力であり、ルネッサンスに於けるパトロンの如くオタクは文化を担う存在なのだ。もちろんその影響はアイドルだけに留まらず、オタクがAKBグループ(或いはそれを模した商法を活用する他のアイドルグループ)に一人で何枚もCDを買うことによって投じた資金がレコード会社の利益として留保されれば、アイドル以外のアーティストを売り出す原資やノウハウとして貢献することもあるだろう。

アイドルオタク=メディチ家。みんなで大事にしよう!…とまでは言わないけど、自分の可処分所得を文化振興のために投資するのを悪く言われる謂れはないはず。もちろんその”文化”が気に食わないという感想を抱くのは自由だけど、AKB商法(或いはそれに乗るオタク)を害悪の如く目の敵にする人は、ちょっと料簡が狭いなあ、とは思うよね。

五十音コラム「う」宇多田ヒカル

1983年1月19日生まれ、アメリカ・ニューヨーク出身のシンガーソングライター。1998年12月、「Automatic/time will tell」で日本国内デビュー、当時15歳という年齢や母親も元歌手という背景、NYで生まれ育って自身も作詞作曲を手掛けるなどのストーリー込みで、一大ブームを巻き起こす。1999年3月発売の1stアルバム「First Love」は売上800万枚以上を達成し、日本国内の歴代売上1位に輝く。

デビュー当初からメジャーマスコミへの露出は意図的に抑えていたが、1999年にブログを・2010年にtwitterを開始し、ネットを通じて自分の言葉で語り掛ける形でファンとの”近さ”を保っている印象。2010年に音楽活動の一旦停止を宣言してからは第一線は退いたようだが、その後も映画主題歌を発表するなど活動は継続、いまだにその存在感と影響力は健在である。

さて、そんな宇多田ヒカルだが、彼女がどういう存在かという受け取り方は、実は世代によってかなり異なるのではないか。

彼女(既に32歳である)と同程度か年上の世代ならば、彗星のごとく現れた「十代半ばなのに、恐ろしい才能を持った少女」として記憶されているはず。あと天井の低いところで歌ってる印象ね。
しかし二十代以下の世代にとっては、三十代以上の世代が持っている「幼さと末恐ろしさのコラボ」というファーストインプレッションは、ほぼないのだ。物心ついた頃には既にオトナのビッグアーティストだった、そういう存在。ちょっと考えれば分かることだが、自身が思春期以降に経験した「常識」を、それ以下の世代が共有していないということには、意外と気が付かないものである。

そして特に今のメディアを作っている人たちは、この常識の世代間相違について、あまりに無頓着な人が多い、気がする。

少し前にとあるバラエティ番組で、タレントのなべやかん(タレントの息子で、一般人時代に替え玉受験がバレて騒動になり、その後たけし軍団に所属するように)に対して、「また替え玉だったんじゃないの?」的なオチに使う演出があったのを見たが、この事件自体25年前の話で、二十代以下の視聴者は1ミリも理解できなかったはず。それを何の説明もなしにオチに使ってそのままコーナー終わるとか、制作者の傲慢以外の何物でもない…というか、まあ天然なんだろうけど。

この”傲慢さ”(或いは天然)が、若い世代のテレビ離れに繋がっているのは想像に難くない。
いや、若い世代に限らない。「常識の共有」については、テレビが支配的なメディアだった二十世紀に思春期〜青春時代を過ごした世代の業界人の認識は、正直かなり歪んでいると思われ、これがあらゆる世代のテレビに対する失望になっているのだろう。

世間よりも「業界ウケ」の度合いが高いコンテンツに関しては、その”歪み”は特に顕著に思える。
近年で言えば、NHK連続テレビ小説あまちゃん」。ここ数年では圧倒的な人気と視聴率を記録したドラマ…であるかのように、いろいろなメディアで報じられたが、この作品の前後1年間ずつを含む計5作品のなかで、平均視聴率は実は下から2番目だ。まあこれ以降の2つに関しては「『あまちゃん』効果」的な底上げがあったのかもしれないが、それにしてもこんなにずば抜けて話題になって、出演者が「あまちゃん女優」「あまちゃん俳優」として民放のバラエティなどに呼ばれまくっていたのは、ブラウン管のこちらと向こうで相当な温度差があったのではないか。ブラウン管じゃないけど。
あまちゃん」よりもさらに温度差を感じるのが、ビッグダディ。どこの局でいつやってる、なんという番組に出てた人なのか、自分は正直知らないんですが…(大家族ものというのはうっすら分かる、周囲に訊いても正確に答えられる人はほとんどいないんだけど、皆さん知ってるのかしら)。こんな人をゴールデンのバラエティに呼んで「ビッグダディ」という呼称だけで”ご存知”の感じで紹介して、テロップですら何の番組に出てたどういう人かの説明はない。別に構わないんだけど、公共の電波で壮大な内輪ウケを見せられても…ねえ。

なんかだいぶ話が逸れたな。途中から宇多田さん全然関係なくなってるし。テレビ制作者の高齢化のカラクリに関しては、また別の稿で書きますかね。
ところで、宇多田ヒカルがデビューして数年はPCや携帯で「うただ」では「宇多田」に変換しないので、入力する時めちゃめちゃ面倒くさかったよね?!…という”あるある”も、下の世代とは全く共有できないんでしょうね、たぶん。

五十音コラム「い」いじめ問題

「いじめ」の定義ってなんだろう。
辞書的な意味としては「肉体的・精神的・立場的に自分より弱い相手」に「身体的・心理的な攻撃を継続的に加える」ことで、しかもその苦痛は他者ではなく「攻撃を受けている側が、苦痛であると認識するかどうか」に拠る、ということが最近は重視されている、といったところか。

ところで、意外と議論されないのが、最初の条件である「自分より弱い相手」の定義だ。

ネット上によくある話で、「一般人が芸能人に対して、心理的な攻撃を継続的に加え」て、「攻撃を受けている側が、明らかに苦痛であると認識し」ても、「芸能人は一般人より立場が弱くない」からなのか、いじめとは表現・認識されない傾向がある。更に言えば、攻撃主体が”名無しさん”の場合は、その継続性も証明できない場合も多いだろう。
しかし本当に、芸能人は一般人よりも「弱くない」のだろうか。

以前ここでも書いたのだが、某女性タレントの「デスブログ」いじりなんかは、ハッキリ言っていじめだと思う。
最初は「MCを勤める競馬番組で、本命と目した馬がどれだけ人気でも負け続ける」という、不確かなものに関して裏目を引き続けるという”不運”いじりだったのが、次第に話題にしたものや国や地域が”不幸”に見舞われ続ける(というこじつけ)の対象がどんどん拡げられて行って、しまいには事故や天災などの人や生き物の”命”に係わることまで、あたかもそのタレントさんのせいで起きているかのような歪んだ面白がり方をされる、という事態になってしまった。この現象(に見えるこじつけ)をまとめたサイトのリンクがtwitterで呟かれると、恐ろしい数のRTがされるのが恒例になっていたが…まさにこの「本人は明らかに嫌がるであろういじり方を、一部の人が面白がって執拗に繰り返し、周囲はそれを止めることなく迎合してその風潮を拡大させる」というのは、子供の頃のいじめの図式そのものだ。
これを言うとよく「ネタに対して、そんなに真面目に目くじら立てるなよ」的な反応をされるが、”相手の気持ちを考えるよりも、その場のノリや面白さ優先”のスタンスこそが、いじめの源泉そのものではないだろうか。

この件に関しては、タレントさん本人は”いじめ”(敢えてこう言う)に対して抗議や反論をしなかったと思うが、例えばtwitterなどで自分への”いじめ”に対して公然と反論をすると、むしろ反論した側が”いじめ”を行っているような扱いを受けがちだ。「フォロワー数が多い人が、少ない人の発言を引用して反論する」こと自体が「弱い者いじめ」にあたると考える人が、少なからずいる模様である。そしてこの発想は、「一般人は芸能人・有名人のことを、どれだけ思い遣りなく叩きまくっても罪にならない。なぜならば相手の方が”立場が強い”ので、”いじめ”ではないから」という発想と対になっているのだろう。個人的にはこの発想、とても恥ずかしいと思うのだが、いかがだろうか。

まあこれを掘り下げても意見が違う人とは平行線なので、消化不良だがこの辺にしておく。最後に、冒頭で挙げた一般的な「いじめ」の定義とは全く違う、私自身が自分に課している「他人をいじめる芽を摘むためのチェックポイント」を記しておきたい。
それは、誰かの発言に対して不快感を抱いた場合、発言者を隠しても・或いはその言葉を大好きな人が発しても許せないかどうか、と自分に問うことである。逆に、他の人が発していれば気にも止めないようなことでも、特定の人の発言だといちいち腹が立つようならばそれは”偏見”だし、その偏見をもってその相手を攻撃することは、恐らく”いじめ”である。

ネット上にはいい歳して、他人を”いじめる”のが趣味のような人が結構いるように思う。他人はともかく、自分はそうならないように心掛けたいもの。そう思いませんか?

五十音コラム「あ」秋元康

国民的アイドルグループ、AKB48をプロデュースする稀代のヒットメーカー。Wikipediaによるとその肩書は「作詞家・放送作家・プロデューサー・映画監督・漫画原作者」で、「京都造形芸術大学副学長」というものも。作詞家としては、一昔前まではとんねるずおニャン子クラブといった「CX系エンタメ」御用達?の印象が強かったが、美空ひばりの「川の流れのように」を経て、”王道でも超一流”の評価を得た、という感じだろうか。
作詞家としての力量や傾向についてはあまり語られることがないように思うが、個人的には歳を経るにつれて「テクニックを駆使することは減り、とにかく曲の世界観を邪魔しない、テクニックを多用しないこと自体がテクニック」という域にシフトしているような気がしている。既に確かな評価を得た人間にだけ許されるスタンス、かもしれない。

あなた 追って 出雲崎
悲しみの日本海
愛を見失い 岸壁の上
落ちる涙は 積もることのない
まるで 海雪
 ―ジェロ「海雪」より

作詞についての専門的な知識はないので、あくまでも字面だけに対する感想で申し訳ないのだが…サビの部分を文章として読むと、「まるで〜」という直喩の形式で「海に落ちる涙」を「海に落ちる雪」に例えるというのは、正直お世辞にも素晴らしい表現とは言い難い。強引に擬えれば「テーブルの上の焼き魚」を「テーブルの上の焼き芋」に例えるぐらいじゃないかしら。違うか。それにしても、海に落ちる水分を海に落ちる別の水分に例えるとか…ねえ、どうよ?

ただ、である。
これがまあ見事に、世界観を「邪魔していない」のだ。「バンダナ(だよね?)の上にキャップを斜めに被って歌う黒人歌手が、女性目線の歌詞のド演歌を歌う」という舞台設定だけで、もう受け手はお腹一杯。そこに詞のテクニックまで乗せる必要はなく、いかにもな「日本海を見て泣く女性」が描かれていれば十分、そしてサビのラストはキャッチーにタイトルが残る、というシンプルな形式は狙い通りだろう。

これぞ現在の秋元康の真骨頂、だと思う。たぶん。
作品以前の舞台設定や物語作りには凝るが、作品自体はむしろ凝り過ぎずに「(作品以前の)物語を邪魔しない」ことに腐心している、気がする。AKB48を含む、万事に於いて。

言ってみれば「作詞家」転じて「策士か!」という。ごめん、これが言いたかっただけでした。