世界を2つに分けなきゃダメですか?

SNS大隆盛の当世、ここ数年ずーっと思ってることがある。

それは「そんなに全人類を『敵/味方』に分けなくてよくない?」ってこと。

自身の経験や周囲の出来事を見てて気付いたのが、SNS上でそれまで"友達"だったのに、ちょっとした行き違いがあっただけで、いきなり"親の仇"くらいの完全なる「敵」にカテゴライズしてしまう人が意外にも多いということ。

SNSに対するスタンスが自分と全く違う人や、SNS上での振る舞い"だけ"があんまり好きじゃない人を、一時的(或いはそれが恒久的になる場合もある)に「見ない」という措置が、リアル世界も含めた完全なる「絶縁状」として機能してしまうことの恐ろしさ。

ちょっとした諍いから、「SNSに対するスタンスがあまりに違うから、一旦twitterのフォロー/Facebookの友達外そう」となって、しばらくして「そういえばあの人どうしてるかな?」と何の気なしに(以前と変わらぬ友達感覚で)覗いてみたら、僕への悪口をいっぱい書いてる!みたいな事例もあったりする。

(1)「twitterのフォロワー=Facebookの友達=リアル友達=何をしても許し合う味方」
(2)「twitterのフォロワー以外=Facebookの友達以外=リアル他人=何をしても叩く敵」

そんなに、全人類を(1)か(2)に分けなきゃいけないですか?
そして(1)のどれかが一つでも欠けたら、即座に全てのチャンネルで(2)に切り変えなきゃダメ?

例えば、これは架空の例だけど。
僕はテレビ局出身なので、実際テレビ業界で働く友人や尊敬する先輩がいっぱいいる。それと同時に現在はフリーランスの物書きなので、いろんなジャンルのライターさんや評論家さんの知人友人もいる。
で、"後者"のなかにメディアのあることないことを面白おかしく書いて舌鋒鋭く批評するのが「仕事」という人がいた場合。その人と個人的に親しくてリアルではよく遊んでても、その人がtwiiterをメディア批判のツールとしていて、僕が"前者"の友人や先輩と数多く繋がっている場でそれを見ることが精神衛生上良くなければ、そこでは「フォローしない」という選択肢はあっていいと思う。

いや、そんな架空の例に依らなくても、僕自身実際競馬予想家として「この人の予想は説得力があって、うっかり事前に見ちゃうと影響されちゃうから、大好きだけどtwitterではフォローしない」とか、「この人の素敵な人柄を活かした業界内の立ち回りには時として嫉妬しちゃうから、尊敬してるし会ったらすごくよく話す相手だけど、自分が精神的に健全じゃない時には一時的にフォローを外す」みたいなことは、正直たまにやっている…いや、ちょくちょくやっている。

競馬予想家としての例はちょっと特殊かもしれないが、ジャンルは何でもいい。「この人がSNS上で頻繁に繰り広げてる批評(アイドル批評・スポーツ批評、その他)は言葉が厳し過ぎて見たくない」とか「この人の嫉妬(モテる同性に対して、同業者に対して、芸能人に対して)は、トークだったらネタになるけど文字としては攻撃的すぎて見たくない」とか、理由はいろいろあるだろうが、SNS上の繋がりに於いては、それを素直に具現化(リムーブとか、友達から外すとか)していいのではないだろうか。
むしろそれをしない結果、その人のことをリアルでも嫌いになったり、挙句の果てに陰口を叩いたりするぐらいなら、「都合の悪いものは(一時的に)見ない」という処方箋はとても有効だと思っている。そしてその処方箋が不要なくらい強くて崇高な人って、そんなにいないとも思う。

人間って、もっと多様で曖昧でいい加減なものだと思う。
想像力と優しさと、あとテキトーさ。そんなふんわりしたもので、もうちょっと住みやすくできないもんでしょうか。

ちょっと角度は違うけど、「SNS疲れ」でよく挙げられる"LINEの既読問題"も似たような側面がある。
「既読になったのにすぐ返信しないと悪い」と受け手が思うくらいはまだいいとして、それを送り手側が「感じが悪い」「いい加減だ」と怒る・敵視する構造は、あまりに想像力も優しさも足りないと思う。

例えば、大学の講義中。LINEを覗き見ることはできても、すぐには返信はできない状況はごく普通にあるのではないだろうか。会社の会議中でもそうかもしれない。これは業種や会議の質にもよるが、「営業の電話には会議中でも出なきゃいけないから机の上にスマホ置いてて、画面にタップ1回くらい(既読)はできるけど、返信はできない」状況なんて、幾らでも考え付く。
プライベートではもっとありそうだ。友達と2人で込み入った話してて、お互いLINEの着信くらいはチラ見できるけど、返信はできない空気とか。「既読にしたらすぐ返信しないと送り手に失礼」と言うが、目の前にいる友人を放ったらかして返信する方が失礼だよって状況、普通にある。
もっと言えば、「疲労困憊で爆睡してる時に着信→仕事の用件じゃないから返信しないでそのまま寝る→数時間放置」とか、メールならば許される(…よね?)ことがLINEで許されない意味が分からない。むしろ寝ぼけて訳分からない返信するより、ちゃんと起きて返した方がよっぽど失礼じゃない場合もある、はず。

なんて返信できない理由を書き連ねたけれど、実は本質はそこじゃない。本当は理由なんてなくてもいいと思う。
もう単純に「いま気分じゃないから、あとでちゃんと返そう」ってこと、メールでも電話でもあると思うし、それが人間だと思う。それが今まで見えなかったけど、たまたまLINEでは見えるってだけだ(返信しない理由の有無までは見えないけど)。「都合の悪いものは見ない」理論で言えばLINEを使わなければいいだけで、それでも使いたければ、「気にしない」しかないのだ。

幸いLINEでも返信しない理由の有無までは見えないんだから、それを最大限"利用"して、「ああたぶん死ぬほど疲れて寝ちゃったんだな、お疲れさま」とか「僕のことを考えてちゃんと時間を置いて考えて返信しようと思ってくれてるんだな、ありがとう」とか思っとけばいいのだ。
「相手がすぐ返信しない=自分が大事にされてない」とか厳密に考えると、自分が先に壊れちゃいますから。想像力と優しさと、あとテキトーさ。そういう考え方って、相手も救うけど、自分も救われますよ。

蛇足を承知で言うと、こういう曖昧さを許さないのって、厳格なように見えて実は情報処理の複雑さを回避するための「逃げ」かもしれないと個人的には思っています。厳しいことを言えば、頭を使わないための理屈

冒頭の話に戻ると、全世界を『敵/味方』に分けて把握するのって、楽ですもん。"味方"には全部フォローして甘い顔して褒める、"敵"は全部嫌って叩いてバカにする。細かい言動を一つひとつ考えて精査して、是々非々で評価するよりも、そうやって最初から決まってる『敵/味方』のラベルに従って対処する方がずっと簡単で頭を使わないでいいですから。

「ある特定の人の一挙手一投足を全部マイナス評価して叩く人」をたまに見ますが、「全部の言動が間違ってる人」「全部の言動が悪意に根ざしている人」なんて、この世にいません。つまりそういう叩き方をしてる人の言説は、「ちゃんと考えていない」かつ「物理的に正しくなり得ない」=全く傾聴に値しないのは自明なのです。
…という、ごく簡単な証明を以て、この稿の締めとさせて頂きます。

ってか、もっとふんわりと曖昧な、生きやすい世の中にしません?